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日韓自転車事情比較

3回目の韓国旅行

相変わらず更新が滞っているがまたも自転車ネタ。

実は2週間前に妻と2人で韓国旅行に行って来た。今回の旅行は事前予約が必要な故宮ツアーおよびドラマのロケ地ツアーへの参加という100%妻の意向に沿ったもので、私は特に目的を持っていなかったのだが、折角なので旅の途中で目にした韓国の自転車事情を書いてみようと思う。

タイトルは大げさだが、今回は1秒も自転車に跨っていないのですべて目にしたことだけである。

日韓自転車置き場の比較

ドラマのロケ地ツアーというのはガイドさんの車に乗ってあるドラマのロケ地をひたすら巡るという、興味のない人にとっては本当にどうでもよいツアーなのだが、名所旧跡を回るツアーでは絶対に行くことのない普通の町並みを見るので韓国の飾らない日常生活を見ることができて興味深い。

写真はドラマの主人公が住んでいるという設定のマンションだが(ソウルでもかなり高級なマンションの部類に入るらしい)自転車置き場が併設してあった。

ソウルの高級マンション

マンションの駐輪場

パイプを曲げただけの簡単なバイクスタンドが並んでいる。このタイプの駐輪場は本当によく見かけた。

次は、主人公が教授を勤めるという設定の大学にあった自転車置き場である。(場所は仁川(インチョン)市内にある実在の仁川大学で当日は土曜日だったが、ガイドさんの案内で大学構内までズカズカ入って行くことができるのが驚きである。)

仁川大学の駐輪場

このように韓国の大学では建物の入り口付近にはこれくらいの規模の自転車置き場がほとんど併設してある。

自転車にスタンドは付かないのが普通

ロードバイクを買った人は誰でも知っていることだが、重量を気にするロードバイクは走る時に無駄なだけのスタンドを付けることはほとんどない。マウンテンバイクやクロスバイクでは一時的に使う簡易的なスタンドを付けることはある。

一方、頑丈に作られている日本のママチャリはロードバイクの倍以上の重さとなることもあるので(最近人気の電動アシスト自転車ではなおさら)、駐輪時に転倒しないよう頑丈で重いスタンドが必須である。

スタンドが頑丈だと平らなところがあればどこにでも駐輪できてしまう。

ママチャリをどこにでも駐輪できなくすれば放置自転車は解決!?

朝日新聞の報道によると(「自転車などの放置台数、赤羽駅がワースト 都調査」2016.4.20)都内の駅周辺に放置された自転車などの台数は、 2015年計3万7004台だったらしく、最悪の赤羽駅(645台)周辺では土日を含む月4回の撤去作業を行っているそうである。まさにいたちごっこである。

日本における駅周辺の駐輪場は単に白線で枠を書いて「この中に駐めろ」的なものが多いが、これでは雑然としてしまうのが常である。我が家の近くの駅前駐輪場では平日朝3人位の係員が自転車を整列するためだけに働いている。(反面休日の無秩序さは酷いものだ。)

もし、韓国でよく見かけたタイプのバイクスタンドがもっと普及していたら放置自転車問題はかなり改善されるのではないか。最近スーパーマーケットの駐輪場にはこの手のタイプの駐輪場が増えてきているように思うが、バイクスタンドが等間隔で並んでいるので見た目整然としている。これが駅前駐輪場にももっと普及すればよいのではないか。

自転車に頑丈なスタンドが付いているおかげで放置自転車問題が起きているような気がする。

仁川(インチョン)市内の自転車専用道路

仁川市内の自転車専用道路

今回の旅行で最も衝撃を受けたのが上の写真の自転車専用道路である。韓国の車は右側通行だが仁川市内で見たこの自転車専用道路も上下2車線あった。写真ではわかりにくいが右側の緑地帯のさらに右には歩行者のための歩道がある。つまり、自動車、自転車、歩行者が完全に分離されている。

以前テレビで北欧の自転車大国デンマークで同じような道路を見たことがあるが、まさか韓国で見るとは思わなかった。仁川市は仁川国際空港開港と共に発展してきた比較的新しい街だが、少なくとも自転車行政はかなりまともに機能している。

日本の自転車道路事情

日本の行政にはもっと頑張って欲しいという思いがあるので、あえて日本の自転車事情の問題点を指摘する。

下はJR新橋駅付近の歩道で撮った写真である。どうやら歩道の車道側半分を自転車、反対側を歩行者で仲良く分け合って使いましょう、というような意図を感じる標識が立っているが、当然のことながら歩行者の誰も標識を見ていない。しかも左側の「自転車通行可」の青い標識には「歩行者優先」と書いてある。

歩道でも車道でも自転車は邪魔者扱いだ。

新橋駅付近の歩道

次の写真は隅田川にかかる東京都中央区の佃大橋の歩道に上がるための(自転車専用)通路の折り返し地点で撮ったものだ。歩行者用には階段が別にあるのでベビーカー、車椅子以外で自転車と競合するものはないはずなのだが、このように目立つ注意書きが貼ってある。

見ていると自転車はかなり通るのだが50mくらいの通路で律儀に自転車を降りて押している人はほとんどいない。行政側としては事故があった場合の管理責任を逃れるためにこんな注意書きを出しているのかもしれないが、本当に自転車に乗る人の身になって考えているか疑問である。

自転車は降りて

下は江東区豊洲付近の歩道の写真である。この辺りの歩道は十分に広くて開放感があるのだが、せっかく色を変えて自転車と歩行者の境界を分けようとしているのであれば、仁川のように自転車専用道路を設けて欲しいものだ。

日本の行政には自動車、自転車、歩行者を分離するという発想が完全に抜けている。

豊洲付近の歩道

日本にはまともな自転車道路がないのかとあきらめかけていたのだが、江東区有明付近で車道、歩道と分けられた自転車専用道路を見つけうれしくなって思わずシャッターを押した。(正面に見えるのは建設中の豊洲市場である。)

ご覧のとおりほとんど歩行者が通らない道だが、是非このような道路を街中にも普及させてもらいたいものである。

IMG_9705

道路が突然陥没したとか、違法改造して重心が高くなったフェリーが転覆して沢山の人が亡くなったとか、韓国の交通インフラにはありえないことが多いが、自転車の環境においては我々は素直に見習うべきことが多いように思った。

戦後70年に亡き祖父を想う

両祖父はシベリア抑留経験者

私の祖父は2人ともすでに他界していますが、共に旧満州で70年前に敗戦を迎えその後3年間シベリアに抑留されました。

極寒の地で強制労働に従事させられ、多くの同胞ははかなくも命を落としました。2人は必死に生き延び無事に帰国してそれぞれの家族と再会するのですが、それまでの3年間は熾烈を極めました。

2人は満州時代からお互いをよく知る仲でもあったのですが、やがてその子供同士が結ばれ生まれたのが私です。だから祖父たちに想いを馳せるとその運命に驚かずにはいられません。

抑留経験はあまりにも過酷だったのでしょう、私は直接じっくり話を聞いた覚えがないのですが、例えば「ノルマ」という言葉、これはロシア語で「強制的に与えられた仕事」の意味だそうでシベリア抑留者が持ち帰った言葉とも言われています。例えば「1日で丸太の伐採10本」というノルマを達成できないと食事を抜かれたりという生活が毎日続きました。

ある時は、毒がはいっているとわかっているまんじゅうを出されたことがあったらしく、仲間の一人が空腹に耐えかね食べてしまい目の前で口から泡を吹いて死んでしまったこともあったそうです。

母方の祖父は今から34年前に亡くなったのですが、旧制一高(現東京大学)で学んだくらい聡明であるだけでなく、亡くなる直前まで日記を書いていたような実直な人でした。シベリア抑留時代も必死に記録を続け、その一部をかろうじて持ち帰りました。

祖父が亡くなった後、祖父をよく知る方々が苦労してその記録を一冊の本にまとめました。

遺稿集「生き残る」

生き残る

これが祖父が残したかけがえのない記録をまとめた本ですが、自分だけでなく後世にも残すべき貴重な内容なので昨年くらいから少しずつ電子化しようとしています。

昭和20年8月9日から始まる記録ですが、はしがきの部分だけこの場を借りて紹介したいと思います。


はしがき

満州国熱河省で役人生活をしていた私は承徳で終戦の日を迎えた。この地に在った西南防衛司令部は「命に依り……」と称していち早く司令官以下錦州市へ引き揚げながら、残留部隊とくに憲兵隊と在郷軍人会に命じて在留全邦人の徹底抗戦を強要した。女子供だけの疎開が八月十四日になって辛くも実現した。

入院中の一在郷軍人が、周囲のはからいで妻子と同じ引揚列車に乗り込もうとしたとき、駅警戒中の憲兵はうむを云わさず彼をひきずり降ろした。割当の済んだ客車の一つを、急に軍用車に変更になったからと乗客を下車させ、目の前で軍用貨物を積み込んだが、それは日本酒と麦酒の詰まった函の他将校家族の洗濯盥から下駄箱まで忘れない引越荷物だった。

聖徳放送局は憲兵隊におさえられ、十四日正午の玉音放送をはじめ終戦処理に関する報道は完全に禁止された。省公署の無電室でたまたま聴いていた数名の者も「この完全なデマ放送」を絶対に口外せぬことを誓約させられた。愚劣極まる混乱が十九日まで続いた。
省次長岸谷隆一郎氏は「徹底抗戦」のナンセンスと全邦人の急速疎開を主張した。進駐軍を待つためにはごく少数の幹部だけ残留すれば充分だとの彼の意見は、結局圧しつぶされた。一万三千の一般民団員はこの日へ兵営になっている承徳離宮に収容された。次長は最後の一人が行進の列に加わるのを見届けてから、自宅で夫人、二令嬢と毒を仰いで自決した。

我々は民団員なので、抑留されるなどとは夢にも考えず、ただ暴民から生命を護ってもらうために、離宮入りをしたのだと思っていた。しかし、我々の身柄を捕らえたソ連外蒙進駐軍の隊長は、一般民団員と兵隊との間に何の区別も見出してはくれなかたった。その理由についてはいろいろの説があった。進駐軍の側から事前交渉で「非戦団員は八月十六日までに奉天錦州の線まで後退させよ。爾後の残留者は戦闘員とみなす」との通牒をこちらの憲兵が握りつぶしたという説。六十万あった筈の関東軍を捕虜にしてみたら四十五万しかなかったので、不足分の穴埋めに地方人を捕らえたのだという説。

いずれにしても民団を兵隊から区別してもらう数限りない努力が払われ、離宮抑留中から輸送の途中、更にウランバートルに着いてからも、口頭といわず文書といわず、スターリン首相、モロトフ外相、チョイバルサン外蒙政府首席をはじめ収容所長、政治指導員に至までの執拗な嘆願と要求が続けられたのだが、結局すべては無駄だった。かくて遡北の地における地獄の三年間がわれらを迎えたのである。

輸送中の貨車の中から私の日記は始まったのだが、収容所生活も労働が次第に強化され、帰還の近づいた頃は文字通り睡眠時間もなくなり、寸刻を見つけては場所を選ばず尻を下し、仮眠をとるのにせいいっぱいだったので、とても鉛筆を握る余裕がなかった。日記の上で回顧できる生活は、その頃のうちでも、とにかく時間的にも或る程度のゆとりのあったことを示すものである。

紙に不自由しながら苦労してこしらえた小さなノートが三冊溜ったが、苦心して無事持ち帰れたのは内二冊だけだった。その中から抄録してみることにした。

昭和二十三年一月


なぜ今、70年前の記録を見返す必要があるのか

このようなはしがきから始まる本ですが、なぜ罪もない民間人であった祖父がソ連の捕虜として捉えられ、シベリアの地で強制労働に従事させられなければならなかったのか?

平和な現代からは想像もできないような理不尽なことが70年前に実際に行われていたという事実は決して風化させてはなりません。

このはしがきは何度でも読み返さなければならないと思います。

祖父の配偶者である祖母は94歳の今も健在で、今日も私の家族と楽しく食事会をしましたが、そのような場でも祖母は必ず「戦争は二度としてはならない。」ということを何度も強調します。

近い将来、日本が戦争をする国になってしまったら、祖父母の世代に対して顔向けができません。

なぜ日本が無謀な戦争に突き進んでしまったのか、それを今真剣に考えるべき時だと思います。

細胞は7年で入れ替わる?

女は7の倍数、男は8の倍数

養命酒のコマーシャルで「女は7の倍数、男は8の倍数」というのがありましたが、実に興味深いと思います。

西洋医学が対処療法的に悪い部分にのみ働きかけるのに対し、東洋医学はより根源的な体の仕組みを理解した上での健康の追求という印象を受けます。

そのように単純に割りきって理解してはいけないのかもしれませんが、日本という国には両方の医学に比較的同じ距離で接しているユニークさを感じます。

人生にはライフサイクルがあり、その節目で体に変化があるということを知識として持っておけば、自然の流れに抗うようなことをせずに素直にその変化を受け入れることができると思います。

男女でその周期に微妙な違いがあるのはそれはそれで面白いのですが、私の興味はなぜライフサイクルが存在するのかということに向かいます。

厄除け

まだ20代の頃、職場の40代の先輩が仕事中に急に胸を抱えて苦しみだし緊急入院するということがありました。その先輩とは20年以上経ってから再会したのですが、当時のことに話がおよび、まさに本厄の年に体調を崩したということを聞きました。

そういう経験をしていることと、私の妻が元々非常に東洋の神秘的なことに対して関心が深いことがあり、私自身本厄の年に毎年正月にお参りに行っている地元の神社でお祓いを受けました。

厄年でも大病をせずに今まで過ごせたのは、そのような意識を持っていたことがかなり大きいのではないのかと自分では考えています。

40代から現在の50代に至るまで、東洋的なスピリチュアルな考え方を受け入れている自分があることは疑いのない事実です。

新陳代謝サイクル

ヒトの体だけでなく経済活動や自然現象に至るまで、何らかの周期で動いているという実感があります。そのような意識の中で次のような記事を見つけました。

新陳代謝サイクル~私達は効果を実感できるまでにどのくらい耐えなければならないのか~

私が興味をもった部分を抜粋すると

  • 私たちの身体の細胞の数は、60兆個である。
  • 1日の間に、身体は新陳代謝で1兆個もの細胞を入れ替えている。
  • 代謝周期が一番短い細胞は小腸の上皮で、約2日。
  • 逆に長いのは骨細胞で90日。
  • 見た目には変わらない私たち人間の体は、細胞レベルでは約5~7年でほとんど入れ替わっている

スパイダーマン3のサンドマンと動的平衡

2007年公開のスパイダーマン3の冒頭で、悪役であるサンドマンが砂から誕生する印象的なシーンがあります。(動画はこちら Spider-Man 3- Birth of Sandman、このシーンの舞台裏はこちら 『スパイダーマン3』CG――何十億粒もの砂をレンダリング

どんどん砂が崩れているのに逆らって次第にサンドマンがヒトの形になっていくシーンを見て、私は直感的に福岡伸一・青山学院大学教授の「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」を思い出しました。

細胞というのは一生同じものが存在しているわけではなく、どんどん自らを壊しながら再生していくことが生命活動である。というのが福岡教授の主張です。私はこの考え方に共感します。

人生の節目が7年周期で訪れている

私自身の人生を振り返ってみると、大きな節目が見事に7年周期で訪れているような気がします。

これは偶然なのか必然なのか自分でもよくわからないのですが、体のすべての細胞が完全に入れ替わる周期で新しい人生が始まるような気がします。

今年はまさにその大変化の年です。その変化の中での産みの苦しみを経験したりすることも多々ありますが、運命の自然な流れに抗わずに素直に変化を受け入れていきたいと思います。