戦後70年に亡き祖父を想う

両祖父はシベリア抑留経験者

私の祖父は2人ともすでに他界していますが、共に旧満州で70年前に敗戦を迎えその後3年間シベリアに抑留されました。

極寒の地で強制労働に従事させられ、多くの同胞ははかなくも命を落としました。2人は必死に生き延び無事に帰国してそれぞれの家族と再会するのですが、それまでの3年間は熾烈を極めました。

2人は満州時代からお互いをよく知る仲でもあったのですが、やがてその子供同士が結ばれ生まれたのが私です。だから祖父たちに想いを馳せるとその運命に驚かずにはいられません。

抑留経験はあまりにも過酷だったのでしょう、私は直接じっくり話を聞いた覚えがないのですが、例えば「ノルマ」という言葉、これはロシア語で「強制的に与えられた仕事」の意味だそうでシベリア抑留者が持ち帰った言葉とも言われています。例えば「1日で丸太の伐採10本」というノルマを達成できないと食事を抜かれたりという生活が毎日続きました。

ある時は、毒がはいっているとわかっているまんじゅうを出されたことがあったらしく、仲間の一人が空腹に耐えかね食べてしまい目の前で口から泡を吹いて死んでしまったこともあったそうです。

母方の祖父は今から34年前に亡くなったのですが、旧制一高(現東京大学)で学んだくらい聡明であるだけでなく、亡くなる直前まで日記を書いていたような実直な人でした。シベリア抑留時代も必死に記録を続け、その一部をかろうじて持ち帰りました。

祖父が亡くなった後、祖父をよく知る方々が苦労してその記録を一冊の本にまとめました。

遺稿集「生き残る」

生き残る

これが祖父が残したかけがえのない記録をまとめた本ですが、自分だけでなく後世にも残すべき貴重な内容なので昨年くらいから少しずつ電子化しようとしています。

昭和20年8月9日から始まる記録ですが、はしがきの部分だけこの場を借りて紹介したいと思います。


はしがき

満州国熱河省で役人生活をしていた私は承徳で終戦の日を迎えた。この地に在った西南防衛司令部は「命に依り……」と称していち早く司令官以下錦州市へ引き揚げながら、残留部隊とくに憲兵隊と在郷軍人会に命じて在留全邦人の徹底抗戦を強要した。女子供だけの疎開が八月十四日になって辛くも実現した。

入院中の一在郷軍人が、周囲のはからいで妻子と同じ引揚列車に乗り込もうとしたとき、駅警戒中の憲兵はうむを云わさず彼をひきずり降ろした。割当の済んだ客車の一つを、急に軍用車に変更になったからと乗客を下車させ、目の前で軍用貨物を積み込んだが、それは日本酒と麦酒の詰まった函の他将校家族の洗濯盥から下駄箱まで忘れない引越荷物だった。

聖徳放送局は憲兵隊におさえられ、十四日正午の玉音放送をはじめ終戦処理に関する報道は完全に禁止された。省公署の無電室でたまたま聴いていた数名の者も「この完全なデマ放送」を絶対に口外せぬことを誓約させられた。愚劣極まる混乱が十九日まで続いた。
省次長岸谷隆一郎氏は「徹底抗戦」のナンセンスと全邦人の急速疎開を主張した。進駐軍を待つためにはごく少数の幹部だけ残留すれば充分だとの彼の意見は、結局圧しつぶされた。一万三千の一般民団員はこの日へ兵営になっている承徳離宮に収容された。次長は最後の一人が行進の列に加わるのを見届けてから、自宅で夫人、二令嬢と毒を仰いで自決した。

我々は民団員なので、抑留されるなどとは夢にも考えず、ただ暴民から生命を護ってもらうために、離宮入りをしたのだと思っていた。しかし、我々の身柄を捕らえたソ連外蒙進駐軍の隊長は、一般民団員と兵隊との間に何の区別も見出してはくれなかたった。その理由についてはいろいろの説があった。進駐軍の側から事前交渉で「非戦団員は八月十六日までに奉天錦州の線まで後退させよ。爾後の残留者は戦闘員とみなす」との通牒をこちらの憲兵が握りつぶしたという説。六十万あった筈の関東軍を捕虜にしてみたら四十五万しかなかったので、不足分の穴埋めに地方人を捕らえたのだという説。

いずれにしても民団を兵隊から区別してもらう数限りない努力が払われ、離宮抑留中から輸送の途中、更にウランバートルに着いてからも、口頭といわず文書といわず、スターリン首相、モロトフ外相、チョイバルサン外蒙政府首席をはじめ収容所長、政治指導員に至までの執拗な嘆願と要求が続けられたのだが、結局すべては無駄だった。かくて遡北の地における地獄の三年間がわれらを迎えたのである。

輸送中の貨車の中から私の日記は始まったのだが、収容所生活も労働が次第に強化され、帰還の近づいた頃は文字通り睡眠時間もなくなり、寸刻を見つけては場所を選ばず尻を下し、仮眠をとるのにせいいっぱいだったので、とても鉛筆を握る余裕がなかった。日記の上で回顧できる生活は、その頃のうちでも、とにかく時間的にも或る程度のゆとりのあったことを示すものである。

紙に不自由しながら苦労してこしらえた小さなノートが三冊溜ったが、苦心して無事持ち帰れたのは内二冊だけだった。その中から抄録してみることにした。

昭和二十三年一月


なぜ今、70年前の記録を見返す必要があるのか

このようなはしがきから始まる本ですが、なぜ罪もない民間人であった祖父がソ連の捕虜として捉えられ、シベリアの地で強制労働に従事させられなければならなかったのか?

平和な現代からは想像もできないような理不尽なことが70年前に実際に行われていたという事実は決して風化させてはなりません。

このはしがきは何度でも読み返さなければならないと思います。

祖父の配偶者である祖母は94歳の今も健在で、今日も私の家族と楽しく食事会をしましたが、そのような場でも祖母は必ず「戦争は二度としてはならない。」ということを何度も強調します。

近い将来、日本が戦争をする国になってしまったら、祖父母の世代に対して顔向けができません。

なぜ日本が無謀な戦争に突き進んでしまったのか、それを今真剣に考えるべき時だと思います。